市民主体の歩行者に安全なまちづくり
トップページ  |  駒込の歴史  |  協議会の目的  |  活動概要と記録  |  まちづくり瓦版  |   リンク
まちづくり瓦版
  

 第4回 おわん横町異聞


第1回
 
日光御成街道と駒込の植木屋

第2回
 
駒込の植木屋盛衰(1)

第3回
 
駒込の植木屋盛衰(2)

第4回
 
おわん横町異聞

第5回
 
日光御成街道と伝中

 区立駒込小学校校内に60周年事業の一つとして、猿二体が刻み込まれた珍しい庚申塔が安置されております。風化して読みづらいのですが、七人の建立者名と寛文12年の銘が,かろうじて読めます。
 駒込には,この他に数基の庚申塔が周辺に点在しており、300年前頃にこの地域は庚申信仰が根づいていたことが分かります。

 この様な事を調べているうちに、文京区内の駒込名主屋敷(本駒込3-50-5)の名主であった高木将監が,前述の庚申建立の年に没していることを発見し,たいへん興味をひくところとなりました。

 『新編武藏風土記稿』には,この将監のことが次のように書かれています。【旧家者嘉平治。先祖ヲ高木将監ト云。慶長ノ頃、村ヲ開キテ此所ニ世々住ス。将監,寛文12年10月28日死ス】とあり,代々の名主をつとめた旧家であることが分かります。

 さて、話を駒込とのつながりに戻しますと、高木将監はもともと豊臣の遺臣で,関ヶ原の合戦後、侍の身分を匿して此の地に移住し,百姓になりすまして上駒込村を開拓しました。文武に優れていたことから村民から慕われ尊敬され、やがてそのことが徳川方の知るところとなりました。
 しかし徳川は,将監が周辺の村人から深く信頼を得ていることを重視し、名主の身分を与えると共にその証として、高木家の娘を江戸城の大奥勤めにさせるのでありました。
 娘は28歳で落飾して(大奥勤めが終了すること)戻されるが、そのあと尼僧となって現在の駒込1丁目に庵を作り、桂林院殿春大禅定尼として,福寿禅院を開基しました。
 五世の大林哲乗尼までは高木一族の出身でありました。特に八世の黄山梅林尼は,天下の三尼僧の一人に数えられ、全国津々浦々から徳を慕って修行僧が集まり、最盛期には五十余名にもなっていました。
 尼僧たちが朝な夕なに,おわんを持って托鉢に出入りする姿を見て、人々はこの辺りを「おわん横町」と呼びました。

 このように駒込には、当時の栄華を誇る柳沢出羽守保明の中屋敷(六義園)があった一方、同じ場所で人里を彷徨する尼僧の悲しい物語も秘められていたのでした。
トップページ   |  ご利用環境   |   リンク・著作権   |   お問い合わせ
小手指まちづくり事業協同組合
inserted by FC2 system