市民主体の歩行者に安全なまちづくり
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まちづくり瓦版
  

 第5回 日光御成街道と伝中


第1回
 
日光御成街道と駒込の植木屋

第2回
 
駒込の植木屋盛衰(1)

第3回
 
駒込の植木屋盛衰(2)

第4回
 
おわん横町異聞

第5回
 
日光御成街道と伝中

 本郷通り沿い道筋、駒込1丁目界隈を古老に尋ねれば、「伝中(でんちゅう)」という言葉が返ってくる。第4回「おわん横町異聞」の中でも、柳沢の中屋敷(六義園)についてふれましたが,この六義園に並行して、上富士前交差点から駒込駅につづくのが本郷通りこと日光御成街道です。

 将軍が日光御社参りの折りなどに,よくこの柳沢中屋敷(六義園)に立ち寄り、ご休息をされたと記してあります。この時、屋敷内に入りきれない大勢の家臣、お供の者達ご一行が,この大通り付近に満ちあふれ、休息待ちとなるのでした。にわか茶屋や物売りなども軒を連ね、ひと時の町の賑わいが出来、ここも将軍家ご休息の範囲内であることから,辺り一帯を人々は「殿中(でんちゅう)」と呼んでいました。
 しかし,身分の低い町人百姓が「殿」という言葉を使うのは、たいへん畏れ多きことから,家臣やお供の者が連絡を「伝え」歩く「中」(範囲)ということで「伝中(でんちゅう)」と呼んでいました。
 さらに面白いお話として、これにあやかりたい隣接している百姓どもが,自分の田んぼを「これこそ田中(でんちゅう)」などと偉ぶるなどしたというエピソードも残っています。
 また,近くの日枝神社(山王さま)については,「上駒込村伝中は神明宮(現・天祖神社)の氏神なるに山王社を伝中の氏神にしている」とあります。

 さて、往時の日光御成街道周辺のもようを彷彿とさせる貴重な資料があります。富士神社そば本郷通り際にあった「えび床」(本駒込3-1-4)の先代が、そのまた先代の話や記録の言い伝えから絵図にまとめた「駒込富士神社周辺之図,図説」がそれである(文京区教育委員会保管。豊島区では16mm映画「絵図に偲ぶ江戸のくらし(33分)」で紹介されている)。

 これは,安政年代(1854〜1859年)の日光御成街道筋、文京区浅嘉町(本駒込1丁目あたり)から本郷通りを北進し,豊島区の駒込駅、妙義坂、霜降橋あたりまでを絵と文で説明してあり、当時の状況がよく分かります。
 この絵図によると駒込付近には、植木屋与一、太郎吉、高野、ステカマ、シゲサンなどの屋敷名が見られます。大黒師(大島)とあるのは,現在の大黒天であることが分かります。
 妙義坂付近には地蔵堂(子育て地蔵尊)の絵が描かれています。文京区あたりは特に詳細に記されており,旗本大名屋敷(5カ所),御家人屋敷(3カ所),寺観音堂、神社、稲荷(あわせて21カ所),名主屋敷(2カ所)があり,そして道の両側に町人が住んでいたことが分かります。

 ところで最近、架け替えられた新しい駒込橋は,親柱、欄干の一部が設置されています。行灯(あんどん)風の照明器具のついた親柱、染井よしの桜と富士山をデザインした欄干部など,江戸時代が偲ばれる様な格調高い橋に生まれ変わりました。
 地域の人々の思いを生かした当局(東京都)の粋な計らいであります。
 

<完>

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小手指まちづくり事業協同組合
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