市民主体の歩行者に安全なまちづくり
まちづくり瓦版
  

 第1回 日光御成街道と駒込の植木屋


第1回
 
日光御成街道と駒込の植木屋

第2回
 
駒込の植木屋盛衰(1)

第3回
 
駒込の植木屋盛衰(2)

第4回
 
おわん横町異聞

第5回
 
日光御成街道と伝中

 駒込小学校に隣接している日本郵船駒込マンションのビル建設工事の際、縄文土器と共に江戸の植木職人が使用したと思われる鉢などが出土して話題となりました。
 また,地下鉄南北線および駒込橋(明治36年建設)の架け替え工事の地下現場から,新生代第四期の貝の化石が多数見つかり、この地域がその時代、海であったことがわかります。

 駒込あたりの本郷通りは,文京区側の本郷台から,沖積土(関東ローム)でできた屋根をつたって妙義坂を下り、谷戸川(現在は暗渠)に架かる霜降橋を渡ります。
 さらに,このあたりの沖積平野を横切って北区側「くらやみ坂」から猫の背のようになった上野台地を上り、飛鳥山経由で岩槻・日光に通じています。
 この道のりは江戸時代には将軍の日光東照宮参詣の公路にあたり,「日光御成街道」と称され、巣鴨を通る中山道とともに江戸五街道のひとつで,交通の大動脈でありました。

 さて、駒込の植木の里が発展した理由は、この街道による影響が大きく、市街地(江戸八百八町)から郊外(地方、百姓地)に出る交通の要所であったことと,当時、幕府政策の一環であった、大名屋敷や寺院の庭園化促進による植木の需要が多くあったこと,それに加えて明暦の大火後、各大名の下屋敷がこの街道筋に多く建てられたことなどが更に拍車をかけたものです。

 先述の沖積土と谷戸川沿いの沖積土、そして水に恵まれたこの地は,植木づくりの豊かな環境となって植木の里を形成し、駒込といえば植木屋という名声を得て、江戸から明治にかけて周辺一帯が発展していきます。
 これらのことから,駒込の植木屋とこの地域一帯の発展要因を探ると今昔を問わず、日光御成街道なしでは語れないのです。
トップページ   |  ご利用環境   |   リンク・著作権   |   お問い合わせ
小手指まちづくり事業協同組合
inserted by FC2 system